現代社会主義の諸問題について

松江

 

労働運動研究 1984.1  No.171

 

はじめに

 

 私が現代社会主義の問題を改めて考えはじめたのは一九五六年、いわゆる「スターリン批判」以来である。それまでほとんど無条件にスターリンを信頼し、ソ連をすばらしい理想の社会主義だと思っていた私にとって、それはまさに驚天動地のできごとだったが、それは私だけの経験ではあるまい。

 ふりかえって見れば、戦後はじめ日本共産党に入党するまでは私なりにマルクス主義を勉強し、疑問をのがさず追求してきたつもりだったのに、党に入ってからどういうわけか勉強を怠り追求がなおざりになった。というより、そのときどきの党の方針、党の決定が実践的というだけでなく理論的にも自分の中で次第に重みをもちはじめ、それがマルクス主義の最適の具体化なのだと自分で自分に言いきかせはじめていた。そのうえ何よりも毎日の闘争や活動に追われて疑う時間さえなかった。こうした私のマルクス主義からの堕落に気がついたのは一九五〇年、「コミンフォルム批判」のときだった。当時広島県労協の会長であるとともに県党の常任委員でもあった私は、内藤知周とともにいわゆる「国際派」に属して「所感派」と呼んでいた中央指導部をきびしく批判して闘った。いままで疑うことを許さない権威として私の内に在ったものとの自らの闘いは、私の再度の探求のはじまりだった。しかしこの時でも、目本共産党の方針をきびしく批判した「コミンフォルム」については、無条件に支持して疑うことがなかった。党指導部の「権威」は批判し得ても、スターリンの指導する国際共産主義運動の「権威」はなお私のなかで絶対に近いものだった。

 その後、宮本顕治らを中心にした「統一委員会」のもとで闘うなかで、組織問題ではうるさいのに大衆闘争の方針を出すことをためらう宮本に疑問をもちはじめたが、再度の「コミンフォルム批判」を伝えるモスクワ放送でこの激烈な党内闘争は打ち切られた。私達を分派主義者ときめつけたこの「批判」には内心激しく不服だったが、国際批判が始まって国際批判で打ち切られたことを疑うところまではゆかなかった。内藤さんとともに理由も書かず自己批判書を提出して復帰し、「表」の県委員長に配置されたが「裏」ではすでに軍事方針が先行していた。こればかりは我慢がならず、次第に批判的な意見をのべているうち「総点検」によって県機関を罷免され、一党員として第一回原水禁世界大会の準備に没頭しているとき、帰広した内藤さんから「六全協」のことを聞いた。内藤さんは、「俺達はまちがっていなかったんだ」と言い、私もそのときはその気になったが、やがて苦渋に満ちた自己批判ときびしい批判が棲愴なまでに激しく渦巻くなかで単純にそうと思えず、何かしら心のなかに得体の知れないかたまりが残った。やがて第七回大会の準備が始まったが、翌五六年、晴天の霞露のように「スターリン批判」が発表された。

 このソ党第二〇回大会における「フルシチョフ報告」は、問題のすべてをスターリン個人に帰した不徹底なものであったが、いままで神格化されていた対象に的がしぼられていただけに、それは全世界の党と労働者階級にたとえようもない大きな衝撃を与えた。私にとっては、スターリンもさることながら、そういうことが批判もされずに社会主義国で起り得ることの方が衝撃は大きかった。それは私にとってすでに絶対的なものではなかったにせよ、歴史のなかでつくり上げられ疑うことのなかった理想像が、いっきょにくつがえる思いだった。しばらくは呆然自失して声もなかった私に、「すべては疑い得る」というマルクスのことばがよみがえった。それは第七回大会を前に、勇気を出して前進することを教えてくれた。党章草案をめぐる論争のなかで、批判はあったにせよ、すぐれた理論家の一人だと思っていた宮本が全くその反対物であることが分り、ガッカリするとともに道の遠さを思った。第七回大会以後、安保闘争のなかで党は闘いの発展におどろいて行動を押え、はやる学生達を処分することが新たな分岐を誘った。私達党章批判派にたいしても、いやがらせとしか思えぬような組織的いたぶりのなかで、やがて私にとって決定的なときがきた。「党中央は常に正しく、党中央の決定に批判があるものはまず自らを省みて恐れよ」という趣旨の『アカハタ』主張であった。ここにマルクス主義の批判的精神は打ち捨てられて絶対主義が支配し、党員は中央の道具と化した。マルクス主義の辞書に「絶対」ということばはないという確信に支えられて私は離党した。中央委員達の離党はそのキッカケとはなったが、その原因ではなかった。

 こうして私のなかに、いつの間にかすみついていた観念的な権威から始めて解放され、私にとっての三度目の探求が始まった。それは私のなかで動かし難い真理だと思われていたものを、一つ一つ疑って探求し直すことであった。私はその一部を『労研』(一九七四・五四号―五七号)(注「新しい党と新しい革命1,2,3,4」)に書いたことがある。そうして当然、いまの社会主義国の諸問題もその時すでに私のうちに熟し始めていた。しかし、かつて他国の党から批判されたことで知った他国を批判することの困難さが、私にいっそうの慎重さを要求した。その後、五回に亘るソ連その他の社会主義国への旅行で実地に見聞した事実にも助けられながら、ここ数年来模索しつづけていた折から、ポーランド問題が起きた。ハンガリi、チェコスロバキア、ポーランドの諸事件は、それぞれの国の問題であるとともにソ連の問題であり、またそれは私にとって現実の社会主義国のあり方を問い返す問題でもあった。日本の社会主義革命という私達に与えられた課題を追求しようとするなら、すでに社会主義国としてわれわれの眼前にあるこの問題を避けて通るわけにはゆかない。この問題をつき抜けてこそ、日本の社会主義的展望を明らかにすることができるのではないかという思いから、漸くこの筆をとることを決心した。これはまだ私の試論であり模索の一端である。あえて提起して批判を乞うものである。

 

共産主義―理論と現実

 

 社会主義がそれ自体で完結する最終的な社会構成体ではなく、窮極の目的である共産主義社会――人間が完全に解放される社会への過渡的な段階であるとすれば、われわれはまず共産主義への道、そうして社会主義と呼ばれているその第一段階の位置づけを追求してみる必要がある。

周知のようにマルクスは、「共産党宣言」その他の著作のなかで共産主義について断片的にはふれているが、彼が共産主義についての体系的な考え方を明らかにしたのは「ゴータ綱領批判」である。それがドイツ労働者党綱領への批判として書かれているため、必ずしも充分に展開されていないとはいえ、マルクスの共産主義に関するほとんど唯一のまとまった学説であることは、誰しも認めるところである。しかしマルクスがここで明らかにしている共産主義像は、現実の具体的な展望として提起しているのではない。それはちょうど「資本論」が高度に発達した資本主義社会の具体的な実例についての分析ではなく、純粋な資本主義の理論的な分析であるのと同じである。「資本論」で追求されているのは純粋な資本主義の分析による資本の運動法則と資本主義の一般的な発展法則である。それと同じように「ゴータ綱領批判」の共産主義論も、純粋な資本主義からいっきょに転化した純粋な共産主義の基本的な法則を明らかにしたものだといえる。またレーニンが「国家と革命」によってこのマルクスの理論を解説、敷街した場合にも、それは同じように理論的な問題として扱われている。

 このように分りきったことを前もって明らかにしておく必要があるのは、しばしばこの共産主義論を現実的な展望として、今日の社会主義と機械的に比較したりする人々がいるからである。たしかにこの共産主義論で明らかにされた法則は、われわれが今目の社会主義を論ずる場合の何よりの基準であるが、それは純粋な仮説にもとつく理論的な展望である。もちろんそれが一国共産主義(社会主義)というようなものでないことはいうまでもない。マルクスが当時の世界で現実的に想定したのは、発達した資本主義国のすべて――イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ等――でイギリスを「心臓部」として連鎖的におきる経済恐慌を契機に、相次いでほとんど同時的に始まる世界革命の展望であった。しかし、マルクスはその後の革命的な発展と展望についてはくわしく語ってはいない。それはマルクスが解明できなかったからではなく、そのために必要な素材が歴史的に準備されていなかったからである。それをはじめて歴史の舞台で明らかにしたのは、ロシア革命におけるレーニンであった。

 マルクスが「ゴータ綱領批判」で展開しているのは、方法論の原点ともいうべき二つの命題である。その一つは、「資本主義社会から生れたばかりの共産主義社会」と、「それ自身の基礎のうえに発展した高度の共産主義社会」という「共産主義の二つの段階」である。また他の一つは、「資本主義から共産主義への過渡期」に照応する「政治的な過渡期の国家としてのプロレタリアートの革命的独裁」という命題である。ただしマルクスは、この二つの重要な命題の相互関係についてはこれ以上何も述べていない。それはレーニンによってはじめて明らかにされた。レーニンは「国家と革命」ー第五章「国家死滅の経済的基礎」によって、この二つの命題を関連づけて論じている。すなわち、経済的な過渡期としての「共産主義の二つの段階」に照応する政治的な過渡期としての、プロレタリア独裁の創出からその死滅に至る過程である。それは経済的な過渡期と政治的な過渡期とを完全に照応的統一的にとらえている。そのためにレーニンがこの理論体系のなかで正確に位置づけたのが、マルクス・エンゲルスによる「国家の死滅」という歴史的な概念であった。しかし現実の歴史的過程は必ずしも理論のとおりには進まなかった。

 

日共「社会主義生成期論」の誤り

 

 マルクスは、共産主義の第一段階(社会主義)を「生産諸手段の共有にもとついた協同組合的な社会であり、そこではすでに生産物の交換はなく「個人的な労働はもはや間接的にではなく、直接的に総労働の構成部分として存在する」といっている。そうして、「ここで問題にしているのは、それ自身の基礎のうえに発展した共産主義社会ではなくて、反対に、資本主義社会から生れたばかりの共産主義社会である。したがってこの共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、それが生れてきた古い社会の母斑をまだ身につけている。」と。

ここでいっているのは、完全に成熟した純粋な資本主義から革命的に転化した共産主義の第一段階(社会主義)である。またここで指摘している旧社会の「母斑」とは、この社会にもなお残るブルジョア的権利を指している。それは後に述べているように、この社会で一定の労働量と消費手段の量を交換する場合に規制するのは、商品交換の揚合と同じ「等価交換」の原則であるという意味で、「平等な権利とはここでもまだやはり――原則的には――ブルジョア的権利である。」と指摘している。

だからこの「母斑」とは、けっしておくれた資本主義社会ないし前資本主義社会がかかえている資本主義以前の古い社会経済形態の残存物ではなく、純粋な資本主義から転化した共産主義でさえ、理論的にいえば、なお残るブルジョア的な平等の権利ー「ここでの平等な権利は不平等な労働にとっての不平等な権利である」ーという「母斑」である。文化大革命期における中国の場合には、中国の古い社会的な諸形態の残存物をこの「母斑」と誤りとらえたばかりでなく、その中国式「母斑」とマルクスの過渡期論を結びつけることによって、長期にわたる「過渡期の総路線」を「プロレタリア独裁下の継続革命」(毛沢東)と規定し、内部矛盾として克服すべきものを打撃的な階級闘争におきかえるという二重の誤ちをおかした。いまその総括のなかで近代化を急いでいるが、その路線はいくつかの相異を残しつつも著しくソ連の路線に接近している。

 それではソ連の場合はどうであったか。

 レーニンは「国家と革命」でマルクスを忠実に解説し発展させたが、プロレタリア権力樹立後のロシアの現実は、この理論のとおりではないことが明らかだった。そこでレーニンは、「資本主義と共産主義の間に一定の過渡期があることは疑いを入れない。この過渡期はこれら二つの社会経済制度の特徴または特性を一つに結合したものとならざるを得ない。この過渡期は、死滅しつつある

資本主義と生れつつある共産主義との間の闘争の時期、いい換えれば、敗れはしたがまだ絶滅されていない資本主義と生れはしたがまだ全く弱い共産主義との間の闘争の時期とならざるを得ない。」(「プロレタリア独裁の時期における経済と政治」一九一九年)と考えた。ここでいう「生れつつある共産主義」「生れはしたがまだ全く弱い共産主義」とは、マルクスが理論的に分析した「資本主義社会から生れたばかりの共産主義」ではなく、小商品生産をはじめとしたロシアにおける旧社会の古い社会経済制度を根づよく残した共産主義(社会主義)であった。その意味でレーニンが指摘している「一定の過渡期」とは、マルクスのいう資本主義から共産主義(高度の段階)への長期の過渡期ではなく、資本主義から社会主義(共産主義の第一段階)にゆきつくまでの過渡期である。それはマルクスの規定したーまたレーニンも理論的には規定したー過渡期のうち、ロシア的特殊性(後進的特殊性)から必要とされる特殊な過渡期である。レーニンはマルクスの原則に拠りつつそのロシア的具体化を追求したのであった。

 ところがスターリンは、この特殊な過渡期である「ネップ」(「新経済政策」期)が農業集団化の強行と大工業の建設によって終り、社会主義の物質的技術的基礎の建設が完了するや否や、過渡期は終った、社会主義は勝利した、と宣言し、直ちに共産主義(高い段階)への展望をめざした。しかし「大祖国戦争」のために果せず、戦後これをスターリンから受け継いだフルシチョフは、やがて共産主義の「物質的技術的土台の建設」にとりかかろうとした。つまりスターリンやフルシチョフは、レーニンがロシアの現実に即して設定した社会主義への特殊な過渡期を、教条的にマルクスのいう「高い段階」への理論的な過渡期と混同して、共産主義への移行を一国的な規模で、しかも急いで人為的に準備しようとした。彼らはレーニンが説いた共産主義の第一段階と高い段階との間のー普通いわれているところの社会主義と共産主義との間のー「巨大」な差を忘れてしまっている。レーニンがいうように、「高い段階を『導入する』ことは一般にできないこと」である。人間のあらゆる共同生活の簡単で基本的な規則をまもる「必要」が「習慣」になったとき、「共産主義社会の第一段階から高度の段階へ、それとともにまた国家の完全な死滅へ移行する扉はひろくあけはなたれるであろう。」(「国家と革命」)その後スターリンは批判され、フルシチョフも批判されたが、社会主義と共産主義に関するスターリンの定式化と展望はそのまま継承されている。ブレジネフ時代の「発達した社会主義社会」論も「全人民国家」論も、フルシチョフ時代とは多少異なるとはいえ、基本的にはこの路線のうえに位置づけられている。

 以上のような問題は、ただ古典の理解を誤ったというだけでなく、古典の誤った解釈による現実への教条的な適用がその段階認識を誤り、マルクスの全理論であるとレーニンのいう「発展の理論」を曲げて現実を飛び超えることになる。たしかに現代社会主義の段階的な位置づけは重要であるが、それは教条からではなく事実に即した実践の指針でなければならない。このことに関連して、日本共産党は最近「社会主義『生成期』論」なるものをもち出して、その理論化を急いでている。

 これは日共第一四回大会決議のなかで明らかにされたもので、「社会主義は世界史的にはまだ生成期にあり、人類の社会主義的、共産主義的未来がもつ壮大で豊かな展望を今日の到達点をもってはかるべきではない」と規定し、ソ連の「発達した社会主義社会」論を批判している。『前衛』最近号で展開されている論文によれば、現代社会主義は「社会主義社会の基礎である共有制の形成過程の時期であり、過渡期中の過渡期としてとらえるべき」ことを主張している。その主要な論拠として、ソ連における「国家的所有にもとつく国営経済とコルホーズ・協同組合的所有にもとつく集団経済の二つの形態の存在」をあげ、こうした現状は、「『旧社会の母斑』の影響がまだ経済的にも残っていることを示すもの」とじて「未成熟な」社会主義だと断じている。論文は結局、「社会主義的変革のみちにふみだす国がまだ数多くあり、民族自決と社会進歩をめざす諸民族も残されていることは、社会主義体制自体未成熟さをもつ現状とあわせ、世界史的に社会主義は『生成期』にあるという認識が妥当性を証明するものといえる」と結論している。

 これは、二つの所有形態の併存を「旧社会の母斑」の影響ととらえる誤りを別としても、「生成期」論と'いうあたかも生物学的な進化論で社会主義の発展をとらえようとするところに、この理論の最大の誤りがある。社会主義の発展はけっして自然成長的ではなく、客観的法則的な基礎をふまえつつなおそれはすぐれて人間の目的意識的な行為であり集団的な営為である。そうしてそこにこそ、いろいろな誤りや問題が生れる理由がある。「生成期」論という生物学的解釈論によっては、今日の社会主義の発展も停滞も、また優れた特徴も誤った欠陥も解明することはできないし、まして目本の社会主義への革命的な展望を明らかにすることはできない。

 

現代社会主義における民主主義の意義

 

 誤った過渡期論は事実を観念で置き換え、自らの歴史的位置をとり違えることによって無理と強制を生む。それが単純な個人独裁からだけでなく、しばしば誤った使命感からも生れることを「スターリン時代」は示している。もちろん、誤ちの原因はこれだけではない。それにしてもこの時代の誤ちを、スターリンの個人的な性格や個人崇拝ということに帰するわけにはゆかない。まず、そうした誤ちが見のがされやすい客観的歴史的条件はなかったか、ということである。その一つは、革命政府樹立から一貫して帝国主義列強の包囲の下にあったということである。それは国内白衛軍と結んだ帝国主義諸国の反革命武力干渉と、またその後もひきつづき最初で唯一の彼らの恐怖の的であるプロレタリア権力にたいし、事あれば圧力を加えようとねらっている帝国主義の存在である。こうした国際条件は干渉戦争以後も人々にはりつめた緊張感を与えることで、軍事的な規律にも似た一元的集権的な体制にともすればなじみやすい条件をつくったのではないか。さらに国内的条件としては、急速に資本主義が発展しながら、その軍事的封建的性格はブルジョア的な市民社会の成熟を妨げ、民主主義の発展を極めて未成熟のままに押しとどめたことである。それはレーニンがスターリンについて指摘したような「粗暴さ」がただ個人的なもの.としてだけでなく、一国的な規模で運用するような粗々しさの残っている半封建的な社会であった。

 マルクスが、純粋な資本主義からの革命的な転化によって生れた共産主義を理論的に定式化したとき、その体系からうかがえるいくつかの理論的仮説があったに違いない。それは完全に成熟した資本主義社会において、客観的に共産主義(社会主義)を準備する経済的および社会的前提である。その一つは、資本主義のもとで発展した生産力がその生産関係と照応しなくなり、生産力と生産関係との矛盾が激化しているという経済的な前提である。また他の一つは、資本主義社会の発展が生み出すブルジョア的な市民社会とブルジョア的な民主主義が、その「紳士的」な外皮をはがれて社会的な矛盾が爆発寸前まで成熟しているという社会的前提である。それらは古い生産関係から新しい生産関係への変革を準備するとともに、それに照応してブルジョア民主主義からプロレタリア民主主義への革命的な転化を準備する。しかし、当時のロシアにはその何れの条件も成熟していなかった。そこには圧倒的な比重を占める前近代的でロシア的な農村と農業があり、ごく一部の貴族や成金たちを除いては都会の文化から全くとり残された多くの貧困な労働者・農民があった。〃おくれたロシア"を〃進んだソビエト"へ飛躍させるための農業集団化と大工業建設のための徹底した集権的な管理は新たな官僚制を生む基盤となり、他方、おくれた社会的条件はそれを容易に受け入れる政治的土壌となった。それはさらにスターリンによって、十分成熟していない労働者階級を代行する無謬の党と結びつけられて絶対化され、その「神化」されたスターリンの党=スターリンの国家への「同化」によってのみ分与される権威のヒエラルキーとなった。それはいわばイデオロギーとしての「スターリン主義」であった。この革命はグラムシのいうように「『資本論』に反する革命」であり、史的唯物論の教条による「宿命的必然性の批判的証明」ではあったが、まさにその故にこそ「事実よりイデオロギーに支えられた革命」であった。それだけにこのスターリンのイデオロギーは決定的な役割を果した。

 しかし、こうした経済的・社会的条件はロシアだけではない。資本主義の帝国主義段階は、マルクスの想定した世界経済恐慌による革命の「同時性」を、レーニンの明らかにした帝国主義の不均等発展による革命の「不均等性」へと発展させた。

ロシア革命の後も〃新しい革命〃が次々と周辺部から興ったが、それは理由がないわけではない。革命は経済革命ではなく、政治闘争による権力の奪取から始まる。経済的条件が成熟し政治的矛盾が集積していても、文化と組織の網の目でたくみに上からおおわれている発達した資本主義社会よりも、資本主義の発展がおくれ経済的社会的には未成熟でも、政治的矛盾が荒々しく露呈している後進的な社会から革命的な変革がおきることは当然あり得ることである。客観的な条件が成熟していないからといって革命を延期するほどおろかなことはない。権力が獲得できる条件があれば、いつでも古い権力を打倒すべきである。しかしそこではロシアについてレーニンが指摘したように、「はじめることはたやすかった」が「革命をつづけ、社会主義社会の完全な組織化という意味での最後の勝利までやりとおすことはより困難であろう。」(レーニン「ロシア共産党()第七回大会)」それは経済的、社会的な条件のおくれがもたらす困難さであり、資本主義がやり残した古い課題を社会主義の建設という新しい課題と結びつけて解決しなければならないという困難さである。そうしてこの困難さをとび超えて急ぐとき、歴史はその前に立ち塞がる。たしかに、日本や西欧では当然だと思っていることが、市民社会の成熟という経験をもたない社会では容易に想像できないという体験の断絶が、この問題の共通な認識を妨げることはあり得ることである。だが社会主義社会における民主主義は、国や民族によって恣意的に取捨選択されるべきものではない。それはすべての国と民族が社会主義(共産主義)を実現するための欠くことの出来ない共通な方法と過程である。重要なことは、どんな成果を達成したかという以上に誰がいかにしてそれを獲得したかということである。ブルジョアジーは歴史上はじめて人類に民主主義をもたらした。しかしそれは彼らの民主主義であって、人民の民主主義ではなかった。

しかし人々はひとたび民主主義を経験することによって必ず真の民主主義を求める。それは支配する少数者の民主主義ではなく圧倒的な多数者の民主主義であり、いい換えれば労働者と人民が社会の主人公になることである。そのときはじめて民主主義は「形式的な平等」の空手形から「真の平等」の証人となる。それはすでに共産主義の入口である。われわれは現代社会主義における民主主義の停滞をその社会の歴史的条件に帰するわけにはゆかない。もしそうするなら、それこそ日共「生成期」論のような自然成長論に陥ることになる。そうではなくて、そこには進歩を求める人間集団の能動的意識的追求があり、「発展の理論」としてのマルクス主義の指針がある。現代社会主義は、歴史によって提出されたこの課題にどう答えているのか。これは果して党によって意識的に追求されてきたのか。発展する生産力に照応する社会主義的生産関係の不断の追求と、そのための民主主義改革こそ現代社会主義の欠くことのできない試金石なのである。

 

「過渡期の国家」と「本来の意味での国家

 

 民主主義の前に立ち塞がるもう一つの重要な問題は国家である。それは、あれこれの歴史的な条件とは別の問題であり、現在もこれからもすべての社会主義国にとっての重要な課題である。

 この問題に関連してレーニンは「国家と革命」第五章で、国家「死滅」という概念を通じてそれ以前の数章よりももっと鮮かに国家そのものを画き出している。マルクスは、資本主義社会という共通な基盤に立ちながら、国境とともに変化する「今日の国家」を「一つの疑制」であるとして、「国家制度は共産主義社会ではどのような変化をこうむるであろうか、いいかえればそこでは現在の国家制度に似たどんな社会的…機能が生き残るだろうか。」と問い、「この問題に答えうるのはただ科学的研究あるのみであって、人民ということばと国家ということばを千度も組み合せてみたところで、蚤の一跳ねほども問題に近づけるわけではない。」(「ゴータ綱領批判」)と鋭く指摘している。レーニンはこうしたマルクスの指摘にふれつつ、この問題への科学的な回答として、共産主義の第一段階(社会主義)では「労働の平等と生産物分配の平等というブルジョア的権利を保護する国家の必要はなおのこっている。……国家が完全に死滅するためには完全な共産主義が必要である。」資本主義奴隷制から解放された人間は、何百年も何千年もくりかえしてきた共同生活の根本規則をまもることに「暴力がなくとも、強制がなくとも、隷属関係がなくとも、国家という特殊な強制装置がなくとも、それらの規則をまもることに徐々に慣れてゆく」ことによって国家は「死滅」する。と。

しかしまたレーニンは、革命権力の樹立後でも抑圧しなければならないものがいる間は、抑圧のための特殊な装置としての国家はまだ必要だが、「それはすでに過渡期の国家であり、すでに本来の意味での国家ではない」といっている。それは革命によって廃絶されたブルジョア国家ではなく、遠く死滅を展望するプロレタリア国家である。しかし現実はどうであろうか。社会主義において国家はますます強大となり、ときとして社会主義国家相互間でさえ「国境」をめぐって軍事的な対立をおこしている。また、かつてスターリンはソビエト国家の名において多くの人々を弾圧し、裁き、処断した。いま社会主義国において国家にたいする批判の自由は狭く、むしろ国家への忠誠が求められている。これは一体どうしたことなのか。マルクスやレーニンの強調していることは純粋な理論であり、複雑な現実はそんなに簡単にはゆかぬ、といい捨てられるであろうか。それが理論であれば、なおさらその理由を理論的に明らかにしなければならない。もしわれわれがこの疑問に科学的に答えようとすれば、答えは一つしかない。

それは何らかの形で、「過渡期の国家」のなかに「本来の意味での国家」がまだ生き残っているからだ、と。それは生物の発展過程で、すでに退化したはずの機関と機能がしばしば残っているのと同じようなものである。結局そうさせているのは、現代世界におけるはげしい国家対立である。現代の国家はまさに「レヴィアサン」ー巨大な怪物ーである。それは社会から生れながらますます社会から自らを疎外しつつ、その個有の利益=国益を追求する。それは「過渡期の国家」のなかに残る「本来の意味での国家」も例外ではない。この怪物はときとして党さえのみこむ。帝国主義国家とのきびしい経済的政治的とりわけ軍事的対抗関係が、「過渡期の国家」の足をとどめて「本来の意味での国家」を引き戻しているのではないか。そうして、こうした事情は国内における国家の役割と無関係ではない。

 もし、国家をその機能によって「外的」国家と「内的」国家に分けることができるならば、「外的」国家のもつ本来の役割は多かれ少なかれ「内的」国家に浸透し、武装した「外的」国家の強力は「内的」国家の民主主義と自由を圧迫する。そのうえ、集団化のもとで歴史的に形成され、その後分権化と民主化への努力が進められたにせよ、容易には解体し難い「スターリン時代」の官僚制が、まだ残存している「本来の意味での国家」と結びつくとき、それは強大な力となる。それは、「社会の全成員あるいは少なくともその圧倒的多数がみずから国家を統治」(「国家と革命」)するかわりに、統治を受けもつ専門的な集団となる。もちろん、それは資本主義国家とは本質的に異なる国家である。しかし「本来の意味での国家」が残存するかぎり、社会主義から共産主義へ進む道は阻まれる。何故ならば、長い過程での自発性と習慣だけが権利と必要に代ってこの道に近づくことを可能にするからである。それは国家という強制装置の正に反対物である。結局、帝国主義が絶滅されない限り、あるいは残った帝国主義への圧倒的な包囲が実現されない限り、一国社会主義目一国共産主義の発展には歴史的な限界がある。地球的な規模での世界革命――次から次へと継起的に発展する諸国人民の搾取制度からの革命的な解放の完成――によってのみ、国家ははじめて死滅への道を歩みはじめ、共産主義への扉は開かれる。その意味で、帝国主義を打倒する闘いは、各国人民の革命的な解放のために全世界の労働者階級と人民がともにになう課題であるとともに、それは現代社会主義の共産主義的発展を闘いとる課題でもある。現代社会主義こそ、自らを解放することによって人間そのものを解放する世界労働者階級のもっとも先進的なとりでとならなければならない。

 そのためにも重要なことは、その経済力、軍事力において帝国主義に追いつき追い越すために努力するだけではなく、人間を否定する帝国主義とは真反対に、最も人間的な社会をめざす困難な苦闘をはっきりと世界の人々に示すべきである。それは帝国主義とのきびしい対立とけっして別のものではない。いやそれどころか、実例を通じて知る新しい社会へのひたむきな努力こそ、世界の労働者階級と人民の生きた力に転化して、帝国主義を革命的に克服する闘いを力強く激励するに違いない。こうした知的道徳的ヘゲモニーをめざす積極的意識的な追求こそ、世界革命の発展と成功を準備する。

問題なのは国家ではなく党である。いま必要なことは、解放のために闘う社会主義国の共産主義党が、国家とその官僚機構との癒着を断ち、国家による社会の指導ではなく、社会による国家の管理と指導を確立すべきである。その力の源泉は社会主義国における労働者階級を中心にした人民にこそある。資本主義国における革命闘争と階級闘争においてそうでなければならないと同じように、社会主義国における社会主義の革命的な建設もその源泉は人民の力であり、この源泉からその力と意欲をくみ出す党の目的意識的な追求にある。マルクス・レーニン主義の党こそが、理想の人間社会をめざす労働者階級と人民の力に依拠しつつ解放のために闘い、やがて自らが死滅するために献身する唯}の党であるからである。

 社会主義国をまもるためにということで、批判を避けて無条件の支持を求めることは唯物弁証法ではない。マルクス主義に「聖域」はなく、マルクス主義の辞書に「絶対」ということばはない。社会主義国への率直で積極的な批判こそ階級的な信頼のしるしであり、「すべては疑い得る」という科学的批判精神こそどんな困難な条件のもとでも、帝国主義と闘って社会主義をまもる力となるであろう。(一九八三・一一・二八)

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